【メーヘレン《エマオの食事》】 偽物か? いやホンモノか?
あ、、、こ・れ・は…… 誰の絵だ?
あれか! フェルメ…… えっ? ちがう? そんな間違いしちゃダメだって?
なるほどね…… ……贋作か。ということは…… うん、メーヘレンだな!
なんでだろう。一回認識したら違うってわかるんだけど、ぼんやり見てると何となく似てるように思っちゃうんだよ…… いや似てるように見ようとしちゃうのかも。
これはたぶんフェルメールが人気になりすぎて、絵とか生涯とか、残された彼の残影にまつわる事件の物語を紹介するなかで、メーヘレンの贋作事件も語られるようになったから、フェルメールのイメージと混ざってしまってるのかもしれないな。
人の顔の凹凸の感じとか、重たそうな服とか、等身の長さのバランスとか、よく見れば全然違うんだけども。
光も強すぎるというか、光源の窓なんか分かりやすいけど、安直な明暗の処理がされてるし。
ただこの作品、一度はフェルメールの手になるってされたんだよね…。
じゃあ、一体どこが似てるんだろうか??
よくよく見ていくと。
左で奥を向いてる人は、フェルメールの《兵士と笑う女》(1658年頃、フリック・コレクション)の椅子に座って背を向けた男性像に似せてるのか。
右の黄色い服着た人は、《天文学者》(1668年、ルーヴル美術館)の学者さんが左向いた側面像からとられてるなぁ。
キリストらしき中央の人が手を伸ばすパンは、《牛乳を注ぐ女》(1658-60年頃、アムステルダム国立美術館)のパンに見られる丸いつぶ状の描写を真似ているぞ。
絵自体の宗教的なテーマは、初期の《マリアとマルタの家のキリスト》(1654-5年頃、スコットランド国立美術館)に近いものを選んだんだろうし、人物像の身振りやモデリングも意識してるんだろうな。このあたりは《取り持ち女》(1656年、ドレスデン国立絵画館)からも類似点がありそうだ。
複数人をクローズアップして描く構成も《取り持ち女》に着想があったかなぁ。暗がりの酒場の場面ていうのは、当時もたくさん描かれただろうし、メーヘレンの宗教画《エマオの食事》との間で絶妙な均衡を保ってる気がする。
具体的にはこんな感じかな。
白いデカンタとグラスは、フェルメールの画業前半の作品によく出てくるし、左の壁にある窓だろうものは、同じくフェルメールがよく左壁面に窓や鏡を描いている。これで光が差す方向も似たようにできるわけだ。壁に四角い穴を開けただけではないか?という粗い気がするけど、幾何学的な絵のつくりかたは、フェルメールから抽出したエッセンスではあるな。
構図はイタリア・バロックのカラヴァッジョの《エマオの晩餐》に近いし、ちょっと引きの構図だけど人物のバランスはレンブラントの《エマオのキリスト》にも似てる。この主題とか表現は、テル・ブリュッヘンやホントホルストといったカラヴァッジストがオランダにもいたように、強い明暗やドラマティックな表現を伝播させた動きと大体沿うものと言えそうだ。
レンブラントが用いる、引きで全体を劇的に映す構図は、彼が独自の効果を求めた部分だと思う。
そういうフェルメールが生きた時代の背景にある絵の大きな流れに従いつつ、複数の作品から取り出したエッセンスを組立てて、「フェルメール」を作りだす…。
《マリアとマルタの家のキリスト》と《取り持ち女》の間ぐらいの時期にちょうどおさまりそうで、ちょうど当てはまりそうな作品…。本人が描いてそうだけど、我々が未知の、あったら信じそうなもっともらしい「フェルメール」。
似てると同時に違う。
その違いこそが、フェルメールらしからぬ、よく知る作品とは少し違う作品がまだ出てくるはずだと待望された時代に、メーヘレンという贋作者がピースの一つとなる場所を生み出したんだろう。
むしろ違う部分がのちに研ぎ澄まされたという説得力を持つというか、全盛期と比べられうる稚拙さや才能の片鱗がこの作品にはあるんだという理由になってしまったんだろうね。
騙された専門家は……… そういう願望や欲望に勝つことができなかったのかな。
そこを狙う戦略もすごい。
フェルメールの全作品が、今ほどはっきり分かっていなかった状況もそれを助けたんだろうね。
ただ、この作品はフェルメールの贋作ではあるけれども、ハン・ファン・メーヘレンのオリジナル作品なんだ。それもあってボイマンス美術館も常設展示してるんだろう。あらゆる技術、知恵を注いで、20世紀にフェルメールを再生しようとしたメーヘレンの傑作とも言えるのかもしれないな。
作品:ハン・ファン・メーヘレン 《エマオの食事》 1937年、ボイマンス=ファン・ブーニンヘン美術館